税を取る国には、暮らしを守る責任がある

震災と避難所から考える、私たちのアカウンタビリティ

国には徴税権がある。私たちは所得税や消費税、住民税、固定資産税などを、好むと好まざるとにかかわらず負担している。税は寄付ではない。社会を維持し、個人だけでは対処できない危険に備えるため、法律に基づいて集められる共同の資金である。

それならば、国や自治体にも、それに見合う責任があるはずだ。平時には道路や医療、教育、治安を維持し、災害時には国民の生命、生活、尊厳、そして可能な限り財産を守る。その責任は、政治家の善意や被災地への「お気持ち」ではなく、統治の根幹にある。

もちろん、国家があらゆる被害を完全に防げるわけではない。巨大地震の発生そのものを止めることも、すべての家屋や家財を救うこともできない。法律上も、国が国民の安全と財産を無条件に保証するという単純な関係ではない。しかし、日本国憲法が個人の尊重、生存権、財産権を掲げ、災害対策に関する法律が国と自治体の責務を定めている以上、「災害だから仕方がない」の一言で、公的責任まで消えるわけではない。

今回の震災を見ても、問われているのは贅沢な要求ではない。

暑い季節の体育館に十分な空調がない。床に雑魚寝し、プライバシーも確保されない。避難所を避けて車中泊をすれば、熱中症やエコノミークラス症候群への「注意事項」が示される。しかし、注意するにも限界がある。安全な車中泊場所、給水、トイレ、冷却設備、保健師の巡回といった環境がなければ、マニュアルは支援ではなく、責任を個人へ戻す紙切れになりかねない。

倒壊した家の前に残る人もいる。余震の危険があると分かっていても、家財の盗難を恐れ、そこを離れられないからだ。治安維持の第一義的な役割は警察にあり、自衛隊がそのまま警察の代わりになるわけではない。それでも警察、自衛隊、消防、自治体が連携し、進入規制や巡回、住民確認、貴重品保全などを行えば、被災者が自分の命と財産を一人で天秤にかける状況は減らせる。

「自助」は必要である。各家庭の備蓄も、避難経路の確認も、車中泊の知識も大切だ。しかし、自助とは公助を省略するための言葉ではない。国が最低限の条件を整え、その上で市民も協力するのが本来の姿だ。行政が環境整備をしないまま、「各自で気をつけてください」と言うなら、それは自助の推奨ではなく、公的責任の個人化である。

台湾との違いは、設備だけではない

台湾の災害対応が注目されるのは、単に避難所にベッドや間仕切りが多いからではない。行政、軍、警察、民間団体、地域社会が、平時から役割を分担し、発災後にすぐ動けるよう準備している点に重要な違いがある。

避難所も、人を一時的に押し込める「収容場所」ではなく、次の住まいへ移るまで生命と尊厳を守る生活拠点として捉えられる。ベッド、間仕切り、食事、衛生、通信、要配慮者への支援が、後から付け足す快適設備ではなく、当初から必要な機能として扱われる。

これは国民性の違いだけではない。備蓄には予算が必要であり、官民の連携には協定と訓練が必要である。体育館への空調整備には優先順位の変更が必要であり、避難所からホテルや仮設住宅への移行には平時からの制度設計が必要だ。つまり、ハードとソフトの双方に、政治的な決断が蓄積されている。

台湾にも政治対立や行政上の失敗はある。すべてが理想的というわけではない。それでも、市民の政治参加が活発で、政治家が有権者の反応を無視しにくいことは、災害対策を含む政策の緊張感につながる。失敗が選挙や世論に響くなら、備えを後回しにする政治的な代償は大きくなる。

日本との違いは、国民が多くを望みすぎているかどうかではない。望んだことに対して、行政が説明し、実行し、検証される仕組みがどれほど働いているかである。

アカウンタビリティとは「謝ること」ではない

日本では、アカウンタビリティがしばしば「説明責任」と訳される。しかし説明しただけでは足りない。

本来のアカウンタビリティには、少なくとも四つの段階がある。

  1. 何を決め、何をしなかったのかを明らかにすること

  2. その判断の理由と、予算の使途を説明すること

  3. 結果を数字と事実で検証すること

  4. 失敗があれば修正し、責任の所在を明確にすること

たとえば寄付や災害関連の税収が数億円集まったなら、「ご支援に感謝します」で終わってはならない。いつ、いくらを、どの避難所の空調、トイレ、ベッド、給水、住宅支援に使ったのか。届かなかった地域はどこか。調達や配備が遅れたなら、その理由は何か。次回までに何を変更するのか。そこまで示して、初めて説明責任を果たしたと言える。

同時に、市民の側も「全部駄目だ」「政治家は腐っている」と怒るだけでは、改善を継続させにくい。怒りは問題を表面化させる強い力になるが、注目が薄れれば行政は元の状態へ戻りやすい。必要なのは、怒りを具体的な質問と継続的な検証に変えることだ。

政治を監視することは、左でも右でもない

日本では、署名活動や行政批判をすると、「左翼」「反政府」「共産主義者」といったレッテルを貼られることがある。しかし、税の使い道を問い、国民保護の実効性を確認し、政治家に結果を求めることは、特定のイデオロギーに属する行為ではない。

「弱い立場の被災者を守れ」という要求には社会保障的な面がある。一方で、「国家は国民の生命と財産を守れ」「税金を効率的に使え」という要求は、保守的な国家観や財政規律とも一致する。右か左かではなく、民主政治の基本的な管理機能なのである。

マスコミやSNSが運動の背景を報じること自体は必要だ。特定政党や団体が関与しているなら、透明にするべきだろう。しかし、誰が言ったかだけで内容を棄却するのは別問題だ。「左派が言ったから間違い」「保守派が言ったから正しい」という判断では、避難所に空調があるか、予算が適切に使われたかという事実が消えてしまう。

レッテルへの最も有効な対抗策は、別のレッテルを貼り返すことではない。要求を具体的にし、資料を公開し、支持政党を問わず参加できる形にすることである。

一般の人がつくれる「良い流れ」

かつて保育所をめぐる強い言葉がSNSで拡散され、待機児童問題への関心と政治的対応を加速させたことがあった。あの事例が示したのは、制度の外にあった生活者の苦痛が可視化され、多くの人の経験と結び付いたとき、政治は無視できなくなるということだ。

ただし、炎上だけでは制度は定着しない。震災対応を本当に変えるなら、次のような流れが必要になる。

まず、現場の事実を記録する。避難所の室温、空調の有無、ベッドや間仕切りの配備時刻、トイレの数、車中泊者への支援、盗難相談件数などを、日時と場所を添えて残す。

次に、要求を測定可能な形にする。「もっとちゃんとしろ」ではなく、「指定避難所の空調整備率と稼働可能な非常電源を公表してほしい」「寄付金の使途を月ごとに公開してほしい」「発災二十四時間以内にベッドと間仕切りを配備する基準を設けてほしい」と問う。

そして、回答を保存し、期限後に検証する。選挙前だけでなく、議会の一般質問、予算審議、情報公開請求、住民監査請求、自治体へのパブリックコメントなど、既存の制度を使って記録を積み重ねる。地方議員に公開質問を送り、回答と実績を一覧化する方法もある。

重要なのは、失敗した行政を批判するだけでなく、改善した自治体や政治家を評価することだ。罰だけの仕組みでは、政治家は情報を隠し、失敗を認めなくなる。問題を公開し、期限を示して改善した者が選挙で評価されるなら、説明することが政治的な利益になる。これが健全なアカウンタビリティの好循環である。

税を納めることと、問い続けること

徴税権は、国家が社会を維持するために持つ極めて強い権限である。その権限に対応するのは、単なるサービスの提供ではない。集めた資源を公正かつ効果的に使い、生命、生活、尊厳、財産を守るために最善を尽くし、その結果を国民に説明する責任である。

一方、国民の役割も納税だけでは終わらない。予算の使い道を問い、行政の回答を記録し、改善を確認し、その結果を投票に反映するところまでが民主主義の循環だ。

避難所に空調を求めることは贅沢ではない。車中泊する人に水やトイレ、健康管理を提供することも、倒壊家屋から離れられるよう地域の治安を守ることも、特別扱いではない。災害時にも人間として扱われたいという、最低限の要求である。

国を批判することは、国を壊すことではない。国が果たすべき役割を果たすよう求めることだ。政治参加とは、誰かを敵にする行為でも、特定の思想に染まることでもない。

税を取る国に、使い道と結果を説明させる。
説明が不十分なら問い直す。
約束したなら、実行されたか確かめる。
実行した者は評価し、放置した者には選挙で責任を問う。

この当たり前の循環を、震災のたびに一時的に怒るだけで終わらせず、平時の習慣にしていくこと。それが、日本のアカウンタビリティを向上させ、次の災害で失われる命と生活を減らす、最も現実的な一歩なのだ。

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